占いとは何か
占術アーカイブ・プロジェクトを運営するに当たり、私の占術観・占いに対する考えを表明しておきたいと思います。
<前提>
ここで言う「占い」とは、紫微斗数、淵海子平、西洋占星術などの時間素因占(生まれた時間や事象の発生した時間をもとする占い)および易やタロットなどの偶然素因占(偶然に配置された卦やカードによって行う占い)に限定して話を進めたいと思います。したがって、霊感占いや、神託など、直接イメージを得ることによって行う占いについては話の対象外とさせていただきます。
<私にとっての占い>
私にとって、占いというものを一言で表現するとすれば、「象徴を利用して世界を理解する技法のひとつ」ということになります。象徴を利用する、ということろがミソです。「世界」という言葉は、自分(あるいは占おうとする人)および自分(その人)を取り巻くすべての状況と考えていただいてよいかと思います。
私はあちこちで機会があるごとに、占いとはSCIENCEではなくARTであるという発言をしております。これは、占いとは科学的、あるいは論理的と言ったLOGOSの世界の産物ではなく、音楽や文学や絵画のようにIMAGEが主体となった世界の産物であるということを意味しています。占いとは、科学的論理的演算処理により答えを導き出すものではなく、むしろ一種の芸術的創作活動であると考えています。
この論は長くなりますので、先に結論を述べておきます。
・占いとは象徴体系である
・占いとはサイエンスではなくアートである。
・占いとは一種の芸術的創作活動である。
・占いとは極めて知的な遊戯である。
・占いは科学ではない。ましてや統計でもない。
・百発百中の占い技法や秘伝など存在しない。
・占いで得た象徴で、人は真に納得する(腑に落ちる)。それが占いの真面目である。
・占いは人生にとり有意であり、正しく使えば本当に役に立つ。
<占いの隠された側面>
「占い」とはいったい何でしょうか?
未来を予知するもの?
まだ見ぬ人の人となりを推測するもの?
これから事態がどう進展するのかを予測するもの?
広辞苑によると、占いとは「占象(うらかた)によって神意を問い、未来の吉凶を判断・予測すること。また、それを業とする人。」(広辞苑第4版 岩波書店)とあります。また、新年になると、必ず新聞や雑誌に「今年1年の〜〜を占う」と題して経済動向や社会情勢や、あるいは芸能・スポーツの動向を予測する記事が掲載されます。
どうやら、世間一般では、「うらなう」という言葉は「将来を予測する」という意味で使われているようです。ところが、将来を予測する行為は、ここでわれわれが話題にしているような「占い」を使わなくても、科学的方法や経済分析、統計等によっても行うことが可能です。占いとは、その中でも特に神秘的な技法によって未来を予測する行為ということになりましょう。はたして「占い」とは将来の予測をする道具のひとつに過ぎないのでしょうか?
実は占いには「未来予測」以外の側面があるように私には思われます。また、私にとっては、的確に未来を予知するよりも(もちろん、それはそれで大切な
ことですが)そちらの側面の方が重要なものなのです。
これを端的に表わしているのは易の考え方でしょう。易には古くから「占筮」と「義理」の2つの側面があると言われています。また中世以降象数易の思想が確立されてからは「象数易」と「義理易」というような言い方で表わすこともあるようです。
「占筮」とは文字どおり、易を占うこと。すなわち実際に占いの道具として易を使うことです。「義理」とは(義理人情の義理ではなく)意義・道理・原理のことで、今の言葉で言うと「哲学」がそれに近いかと思います。易経を義理の書として読む、と言った場合、易経を哲学・思想の書として読むということを意味します。
これは占いの書として生まれた易経が、儒経の主要経典(四書五経)としての扱いを受けるようになり、中国で長い間哲学的思唯の対象になったことによるところが大きいと思われます。
易学の研究者の中で、義理易を重んじる人は、占筮としての易を軽視し、中には占いを無視するような傾向の人もいます。また逆に、占筮を重んじる人の中には、易経には深遠な思想が込められているので、易こそが運命学の最高峰であり、その他の九星術や人相などは一段低い占いであるという見方をする人もいます。
確かに易経は、主要な元型的イメージや象徴(*1)を多く集めた、他に類を見ないほどに完成度の高い象徴体系であり、汲めども尽きせぬ含蓄をもつ書物であると思いますが、何もひとり易に限らず、すべての占いはこの哲学的側面を持っています。
なぜなら人は、人生において右するか左するか、ひとつの決断を行おうとする時に占いの託宣を得ようとします。その時彼は、右するか左するか、行く末を慮(おもんばか)り、また自己と他者とに思いを巡らします。この行為は、すなわち哲学的行為に他ならないからです。
どうも世間での占いの扱われ方を見ていると、このあたりのことが全く忘れ去られているような気がしてなりません。
占いは、この「義理」(哲学・思想)としての要素と、実際に占う「占筮」(占うこと)としての要素が密接に結び付いて成立しています。どちらの方がウェイトが高いということもなく、両者は不可分なものであると思われます。
また、占いはこの義理、すなわち「行く末を慮り、自己と他者とに(あるいは天と地とに)思いを巡らす」行為のための素材として、(しばしば「占筮」を行うことにより)明確に定義されたコトバではなく、多義的な意味を含む象徴を提供してくれます。
それでは、まず最初に、このあたりのことを少し掘り下げて考えてみること
にいたしましょう。
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(*1 元型 Archetype)
スイスの心理学者ユング(Yung,C.G 1875-1961)が提供した概念。
彼は臨床心理家として多くの人の治療にあたるうち、人間の心は個人や社会的な環境を超えて共通の表象を表出することがあることを見い出した。そして人間の無意識に、その共通の表象を表出する可能性を仮定し、それを元型と読んだ。
<象徴体系としての占い>
「占い」とは何かということを考えるために、少し占いの構造を分析してみましょう。一般に占いの各種技法は、ある一定の手順によりひとつの(あるいは複数の)象徴(Symbol)を導き出します。その後にそれらの象徴を占おうとするテーマにしたがって解釈し、何らかの意味を得ます。
つまり、生年月日時からホロスコープチャートなり命盤なり命式を描く。あるいは筮竹を繰ることにより八卦を得る。あるいはタロットカードをスプレッドする。そうして得られたチャートや易卦はひとつ(あるいは複数)の象徴で構成されています。術者はその象徴を読み取り(解釈し)自分あるいは問占者の問いに対する気づき洞察を得ようとするのです。
ここで注意すべきことは、古今東西、あらゆる占いの技法のほとんどが、「象徴」を用いているということです。実は占いとは象徴の体系(システム)であるということが言えます。
<象徴と記号>
それでは、象徴(Symbol)とはいかなるものなのでしょうか?
象徴は、名前や図形や言葉といったように様々なかたちで表されますが、いずれのかたちで示されるものであれ、その明白に定義される意味に付け加える何らかの意味を帯びているものです。言い換えれば、明確に定義づけることはできないが、一定の核を持って集合している諸々のイメージ群を表現するために選ばれた言葉や図形が象徴であると言えるでしょう。
例えば、易の(小成卦としての)坤卦は基本的に穴の開いた横線が3本並んでいる図形で表現されますが、大地、牝馬、など、その卦の持つ代表的な意味が表現される一方、その背後には穏やか、母親、中年夫人、やさしさ、低姿勢、堅実、従順などなど、その他明確に定義できない無数のイメージをその含蓄として持っています。
このことは同様に、西洋の文化背景における金星(Venus)(という象徴)の意味するところや、タロットカードにおけるそれぞれのカード(例えば魔術師や死神など(の象徴))の意味するところを考えていただければ、容易に理解していただけるかと思います。
また、古来から伝えられる占いのシステムにおける象徴は、同時に極めて元型的な諸表象を備えています(*1)。
一方、この象徴と異なり、明確に定義された意味を表す言葉や図形は一般に記号(Sign,Mark)と呼ばれています。記号は象徴と異なり、基本的には背後に含蓄に富んだ言外の意味を持つことはなく、明確に定義された意味を表現します。例えば、交通標識や表示がそのよい例でしょう。「進入禁止」や「制限速度50km」などの標識はそのものズバリの明確に定義された意味を表し、背後に言外の意味を含んでいることはありません。また「+(プラス)」や「−(マイナス)」や「=(等号)」などの数学記号にしても同様です。
記号は明確に定義された意味を表すがゆえに、主に理性や意識にはたらきかけるメッセージを持ちますが、象徴は理性や意識にはたらきかける他、無意識や感情にはたらきかけるメッセージを持ちます。
例えば、国旗というものを例にとって考えてみましょう。国旗は記号であると同時に象徴でもある面白いものですが、皆さんが外国旅行をして、その国の国旗を土足で踏み付けたらどのようなことになるでしょうか?訪問先の国の国民感情次第ですが、おそらくはその国の人に袋叩きに合うか、そこまでいかなくても、強烈なブーイングをくらうことになるでしょう。これは国旗がその国家を他の国家と区別するという記号としての役割の他に、その国全体という莫大なイメージを背負う象徴の役割を持つからです。その国の象徴が汚されることにより、その国そのものが汚されたという感情をその国民は抱きます。
また、同様の例として、江戸時代切支丹ご禁制の時代の「踏み絵」などをあげることができましょう。キリスト教徒でない者にとってはただの夫人画にしか過ぎない絵ですが、当時の日本のキリスト者にとっては、それは神という決して定義できないイメージを表象する象徴だったのです。
また、記号(や記号としての言葉)は、意味が明快であり、ものごとを明確に表現しますが、それは時として一面的であり、極めて限定された範囲のことがらしか表現しません。一方、象徴(やメタファーとしての言語表現など)は、曖昧で明快さに欠けますが、多義的であり、多面的であり、柔軟であり、非常に多くのイメージを伴っています。
<コンピュータ占いの限界>
以上見た通り、占いというものは何らかの手法で象徴を導き出し、その象徴を解釈し洞察を得るという行為です。したがって、何らかの手法で象徴を導き出すという行程は機械化が可能ですが(実際多くのチャート作成ソフト、命盤作成ソフト、立卦ソフトが作成されています)、象徴を読み取るという行為は極めて機械化が困難な行為であると言えましょう。
すなわち多義的な含蓄を持つ象徴から、千変万化する状況に適合した意味を読み取るという行為は、多分に直感的な(あるいは感覚的な)行為であり、現在のところ機械の成しえる技であるとは思えません。(もっとも将来、人間の知的活動そのままの動作をするAI(Autificial Intelligence(人工知能))が絶対にできないとは言い切れませんが・・・)。
象徴から意味を導くという行為は、論理的思考に加え、芸術的直感といったようなものが多分に要求される行為です。これが故に私は占いというものはSCIENCEではなくARTであると思うわけなのです。
私は占いとは文学的知的活動である、という言い方もいたしております。占いの象徴を言葉で表すと、その多くは隠喩的表現を伴います。一例として易経の卦辞を見てみましょう。どこでもいいのですが、例えば井卦では、「井戸のつるべが井戸の水面にとどこうとしているのに、つるべが壊れる」とあります。これを直喩的に解釈すると、「うちの井戸で水を汲もうと思うのですが、如何でしょうか?」という伺いを持ってきた人にしか通用しない占いになってしまいます。この卦辞は、「つるべが壊れる」という表現で、その背後にある膨大なイメージのニュアンスを隠喩的に表現しているのです。
さらに占いとは、その解読された象徴の意味を、その占いを問いかける者自身が受容することで、新たな意味をそこから見い出す行為です。問いかける者自身が占者であった場合、彼自身の立場と、彼を取り巻く状況と、占いで得た象徴の意味との3者を関連づけて、彼の今後のとるべき道を考慮することになります。多くの場合、問いかける者と占者とは同一ではありませんから、その場合、この工程は2者の協同作業となります。
少なくとも、ここでその行為は、この占いに問いかける者個人がクローズアップされる極めて個別的なものとなります。その者個人にとっては、運命とはEinmal(一回性)なものであるからです。
ここに至って、彼にとっては確率や統計は全く意味をなさないものとなります。交通事故に遭う確率が0.1%だったと仮定してみましょう。その当事者以外の者は、1000人いれば1人は交通事故に遭うのだなあと思うだけですが、その事故に遭ってしまった当事者は、何故私がその0.1%の内に入ってしまったのか?という問いかけをするからです。
この行為は、人生観や世界観といった哲学(や宗教)に属する範疇の行為となります。先に申し上げた、占いの哲学的側面が大きく関わってくる領域です。従ってここでの行為は、もはや自然科学の範疇を大きく超えた行為となります。
このことを臨床心理学者の河合隼雄氏は以下のように述べておられます(*2)。
「結婚式を目前にして、最愛のひとが交通事故で死んでしまった人がある。このひとは「なぜ」と尋ねるに違いない。「なぜ、あのひとは死んでいったのか。」これに対して「頭部外傷により・・・云々」と医者は答えるであろう。この答えは間違ってはいない。間違ってはいないが、このひとを満足させはしない。なぜ、この、正しい答えが、この人を満足させないのか。それは、この「なぜ」(Why)という問いを「いかに」(How)の問いに変えて答えを出したからである。医者はHow did he die?(どのように死んだのか)について述べたのである。ここに、私は、ヘルムホルツの有名な言葉、「物理学はWhyの学問ではなく、Howの学問である」を思い出す。雨はなぜふるのか。風はなぜ起こるのか、という問いについて思弁するのをやめ、雨はいかにふり、風はいかに吹くか、その現象を的確に記述しようとの態度によって、近代の物理学は発展してきた。極限すれば、WhyをHowに変えることによって、自然科学は今日の発展を遂げてきた。・・・中略・・・しかし、この輝かしい理論体系は、われわれの患者の「あのひとはなぜ死んだか」という素朴なWhyには、何らの解答も与えてくれない。実のところ、心理療法家とは、この素朴にして困難なWhyの前に立つことを余儀なくされた人間である。・・・(中略)・・・これをもってしても、心理療法家たるものは、自然科学としての心理学のみに頼りがたいのではないか、という点が予感される。」
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*2 「ユング心理学入門」 河合隼雄著 培風館 1967 PP.2〜3
<神話(あるいは哲学)としての占い>
冒頭で、私は象徴を利用して世界を理解する技法のひとつ」であると申しました。これを言葉を変えて言えば、「占いとは自己の存在の位置を神話的に定位させるためのものである」とも言えます。これは、占いの過程において表出される象徴言語を解釈し、記号言語ではなく象徴を通じて自己の置かれている立場や状況を理解することを意味しています。
あまり抽象的な話ばかりではわかりにくいと思いますので、少し例を上げて
みましょう。(恥ずかしながら、すべて私個人の例です)。
ある時ある場所で、私は全く理解し難い一人の人物に出会いました。そこでは、解決しなければならない問題が発生していました。彼はその事態を率先して収拾しなければならない立場にいました。しかし彼の言動は、周囲に混乱と苛立ちをまきちらすだけでした。彼からは投げやりでヒステリックなメッセージしか伝わってきません。いや、そもそも彼の発する言葉の意味がさっぱり理解できません。何を言っているのかわからないのです。
私は、一向に事態を収拾しようとしない彼に苛立ちました。また、彼の言動に憤りを感じました。「なんてひどい奴なんだろう!!」とも思いました。
そうするうちに、ひょんなことから彼のBDを入手しましたので、早速彼の紫微斗数命盤を組んでみました。彼の命盤から浮かび上がってきたのは、雨に濡れてびしょびしょになりながら、決してかなわない相手に精一杯吠え立てている小犬の姿でした。
そのイメージを見た時、それまで感じていた彼に対する憤りや苛立ちは、一瞬にして消え去ってしまいました。逆に、なんてかわいそうな奴なんだろうという気持ちが心の中に沸き起こってきました。
もちろん、私が感じた彼のイメージが客観的に彼自身のことを表わしているものかどうか、はっきりしたことはわかりません。しかし、このイメージを感じたことにより、彼に対して感情的になっていて、彼を一面的にしか評価できなかった自分の非をさとることができました。私の気持ちは静まり、私自身と彼を冷静に客観的に見ることができるようになりました。その結果、(彼の稚拙な言動は理解できませんが、)彼が何故そういった稚拙な言動でその場を混乱させているのかが、自分としては理解できたのです。私はここで、その件に関してひとつの洞察を得ることができました。
もうひとつ例を上げましょう。
昔、私がある不慣れな分野に打って出ようかどうしようかと迷った時、易に伺いをたててみました。すると、夬卦の初爻変を得ました。初九の爻辞には、「足を進めようという意気は盛んであるが、行っても勝てない」とあります。また、初爻は最下位の爻で、「意気盛んなれど力足らず」という意味があります。ここで、私は信頼している先輩か上司から「お前は勉強不足である。いままでこのことについて、どれだけの準備をしてきたのか?ほとんど何もしていないではないか。そのまま進んでも力及ばずで失敗するのは火を見るより明らかではないか。この未熟者!!」と叱責されたような気がしました。
実際、今、客観的にその当時を振り返ってみても、その分野に進出することは、あまりにも無謀な行為であったと思います。その時の私はあせっていました。私は易の託宣を素直に受け入れ、時間をかけて準備をすることにしました。私はここでもひとつの洞察を得たのです。
以上のように、占いで表出された象徴を解釈することにより、今、自分の置かれた状況や今後のなりゆきを、また違った角度から考察することができます。このことは、ある意味で、占いというものを通じて自己との内面的対話を行っていることであるとも言えましょう。
この考え方は、また客観的・物理的事実よりも主観的・心理的意味を重視した考え方であるとも言えます。私の事例では、その腹立だしい某氏がはたして客観的に見ても、雨に濡れてびしょびしょになった小犬のような人であったのかどうかはあまり問題にしていません。
この考え方は、特定の個人の人生の一局面を考える場合、その人にとっての「意味」というものは主観的・心理的なものに還元せざるを得ないということによるものです。
もともと私は、深層心理学に興味を持ち、そこで人間と象徴の関係に興味を持って「占い」の世界にたどり着いたという経歴を持っています。これは、私のそうした遍歴が成させる占い観なのかも知れません。
しかしながら、私は決して客観的・物理的事実を無視する態度を取るものではありません。むしろ実際の実占の場面では、客観的・物理的事実を無視して主観的な判断に走ると、とてつもなくおかしな話になります。この点について
は、このテーマの最後にもう一度考えることにいたします。
むしろ、占うという行為は、その本人には受容しがたい客観的・物理的事実を主観的に受容するきっかけとなることがあります。それが占いのひとつの大きな効用であると思います。
<占いと科学>
私は占いは科学ではないと思っています。ましてや統計学などでもありません。それを無理に科学の範疇で理解(あるいは批判)しようとすると、各所に無理が生じ、たちまちわけのわからない議論の陥穽に落ち込んでしまいます。
ここで科学と言った場合、ニュートン力学に代表されるような時間系列の中での因果連鎖を前提とする近代の自然科学の考え方を指します。また、自然科学は客観的物理的事象を対象とするものであるといたします。(数学的に言うと「古典論理」ということになるのでしょうか。)
(ハイゼンベルクの不確定性原理に代表される、20世紀になって素粒子の世界を中心に提起された科学の新しい考え方については(数学的に言うと「量子論理」でしょうか)、厳密に言うとまた別の議論が展開できるのですが、あまりにも話が複雑になりますので、ここではその点については保留にして話を進めたいと思います。)
さて、私が占いは科学ではないと思う理由については、今まで述べてきましたように、占いが対象とするものは、特定された個人の生き方にかかわる領域であり、それは哲学(宗教、神話)の対象分野ではあっても自然科学の対象分野ではないと思うからです。
また技法論の観点で見ても、占いでは多様な意味を含む象徴言語を用いるのに対して、科学の分野では(私が認識する限り)明確にその意味が定義された記号言語を用います。したがって、占いというものは科学ではなく、芸術や芸能に近い領域に属するものだと思うからです。
ここで、次にまた別の観点から占いと科学について考えてみましょう。
自然科学のテーゼのひとつに因果律がありますが、占いを因果律の範疇でとらえようとすると、とても奇妙な議論に陥ってしまいます。占いで表出される象徴なり占断と、外的な事実との間の対応関係は(平たく言えば、なぜ占いが当たるのかということは)、一般常識の因果率の範疇では説明不可能です。占いと因果律については、次の項以降で詳しく考えることにしますが、少なくとも私には、占いで出された表象と外的事実との間に何らかの物理的因果関係があるとは、とても思えません。
実は、かなり占いに親しんでいる人でも、結構この落し穴にはまっている人がいます。すなわち、占いの結果が外的事象の原因となっているという錯覚を起こしてしまうのです。
いわく、タロットカードで悪魔が出た「から」彼は他の女のもとに去ってしまった、とか私の出生図の火星と彼の出生図の金星との関係が良くない位置にある「ので」彼とはうまくいかなかった、とか。
タロットカードや出生図の惑星の配置が、彼とうまくいかないという事象の原因なのではありません。その原因はその人自身にあるのかも知れませんし、彼の中にあるのかも知れません。また、2人が出会ったタイミングにあるのかも知れません。タロットカードや出生図の象徴は、そのことをただ差し示しているに過ぎないのです。少なくとも占いの結果が原因となって外的事象が発生するのではありません。
世間で(その多くは科学者の立場から)占いは非科学的な迷信であって、信ずるに値するものではない、と言われる意見の多くは、このような占いと事象との間に物理的因果関係を考えようとする混乱から生じています。
ある科学者は占星術批判として次のようなことを語っています。
「占星術師たちは遠く離れている諸天体が地球上の人間に影響を及ぼしていると主張するが、どのように考えても、新生児が誕生する時に分娩室にいる医師自身の引力作用の方が、天体がその新生児に及ぼす引力作用よりもはるかに影響が大きい。したがって、占星術は非科学的でナンセンスなしろものである。」
これは、占いを因果律が支配する世界観に取り込んで、そのようなことはあり得ないと批判する態度の典型を示しています。
占い師と自称する人たちの中にも、占いは統計学であるとか、未だ科学で解明されてないだけで、天体の運行は磁力線や宇宙線などその他の力を人間に及ぼすのだ、などと言う人が時々いますが、それは「疑似科学」であって、もはや科学でも占いでもありません。
<占いに上達するために>
以上長々と申してきましたが、占いとは論理的演算処理ではなく、象徴を読み取りそこから洞察を得ようとする、極めて知的な遊戯であり、芸術的創作活動です。
生年月日時という初期値を入力すれば、たちどころにその人の全てがわかるという「秘伝」(アルゴリズム)などは存在しません。私も長く占いというものに関わってきましたが、百発百中の占いなど見たことがありません。私が実際に占ってみても、当たるときもあれば当たらないときもある。それでは、占いという技法を活用し、そこからより多くの知見を導き出す(卑俗な言い方をすれば「当たる」ようにする)にはどうすればよいのでしょうか?
以上見てきた占いの本質に立ち返れば答えは自ずから明らかです。占いの技法に習熟することはもとより、なによりもより多くの人生経験を積み、人生に対する知見を高め、常識を高めることです。そして占いの場において、その対象について得られる限りの情報を集め整理したうえで、得られた象徴からその意味を推察するのです。
江戸時代、易聖とうたわれた真勢中州という学者に「筮前の審事」というものがあります。
1.筮を請うものの分限を明らかにすべし
2.その人の地位を明らかにすべし
3.その人の時を明らかにすべし
4.その人の居所を明らかにすべし
5.占おうとする処の事情を逐一微細に聞き定むべし
6.その人の勢いを熟察すべし
というものです。つまり、占うに当たって、相手に関する情報を集め整理した後に卦を立てよ、と言っているわけです。
また、昭和の易聖とうたわれた加藤大岳氏の言葉に、易占家の資格として
1.学識、教養は易占家第一の資格
2.推理的頭脳の所有者たること
3.旺盛なる精神の活動力を有すること
4.円満なる常識の所有者たること
5.信頼に値する人格者たること
6.易修行と実生活の修練
の6項目を挙げています。
要するに、理性的常識的な知能と判断力を磨け、ということでしょうか。
では、少し具体例を挙げてみましょう。
中国北宋時代の儒学者で易の大家であった邵 康節のエピソードです。邵 康節は梅花心易の創始者とも伝えられ、いろいろな図書に引用されているエピソードですが、恐らくは後世の作り話でしょう。
邵 康節先生が、息子とともに山里に隠棲していたときのエピソード。
時は晩秋、昨日までまだ日差しは秋のそれであったが、今夜はやけに冷え込んできた。明日か明後日は木枯らしが吹くかも、という夜更け、康節先生、夕食を済ませ息子といろりに火をくべ、暖を取っていた。すると、表の戸を叩く音がする。
「すみません。こんな夜分にすみません。急ぎお借りしたいものがございまして伺いました。」
声を聞くと隣家の主人。扉を開けようと立ち上がった息子を制し、康節先生、これはいい機会と、隣家の主人には軒先でちょっと待ってもらって、息子にお隣さんは何を借りに来たか占わせてみました。
息子は得た卦は「天風コウ」の卦(象徴)です。易をやっている方はおわかりでしょうが、この卦は2つの象徴から出来ており、上卦は「乾」下卦は「巽」。「乾」の象意のひとつに剛金というものがあり、「巽」の象意のひとつに長木というものがあります。このことから息子は、長い木の棒の先に鋼(はがね)の何かがついているものと考えます。
「わかった父さん、鋤だよ鋤。お隣のご主人は鋤を借りにきたんだ。」
その答えを聞いて康節先生、笑って言うには。
「違うな。だいたい、こんな寒い夜更けに鋤を持って畑に出て耕そうというのかね?斧だよ、斧。昨日に比べ今宵はぐっと冷え込んだ。いろりで暖を取っているうち薪が切れてきたんだろう。納屋に積んであった木材を斧で薪にしようとしたが、斧が壊れていたか、途中で壊れてしまったか、使えなくなってしまった。斧がなくては薪を作れない。この寒い夜、薪なしでは朝までたまらん。ということで夜分にもかかわらず、うちに借りにきたというわけだ。」
隣家の主人を招き入れ問うてみると、はたして彼が仮にきたのは斧でした。
息子はいい卦を出したし、読みもいいセンまで行った。確かに長い木の棒の先に鋼のものがついていました。しかし、急に冷え込んだ夜、彼に必要なものは何か、という状況情報の整理と推理により、父親の康節先生は正解に辿り着きます。術を磨き卦(象徴)を得ることはもとより大切なことですが、いかに周辺情報を整理し推理を巡らすことが重要か、占いの本質を突いている例だと思ったので、紹介させていただきました。
世間ではとかく秘伝を大切にし、その秘伝を高額で売り買いする場面も見られますが、占いの本当の秘伝というものは、こういうことじゃないかと思うのです。ですから、秘伝は言葉にして伝えようと思っても伝えられるものじゃない。先人達人の技(わざ)を肌で感じ盗むより仕方ないものなのでしょう。まさに占いが技術、アートである所以です。
私も占い技法のみならず、人生に対する常識を高め知見を深め、日々精進したいと思っています。
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