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2015年6月30日 (火)

不立文字

ふたつ前のエントリーに「占いというものは、得られた象徴を人や物事、森羅万象に当てはめてその意味を考察するという行為である。その際、公式や単純に当てはめればよいという教科書どおりの解はない。」と書いた。

前のエントリーでは、その際に常識を無視すると、とんでもなくすっとんきょうな判断になると書いたのだが、実際、これが難しい。有限の象徴を無限の事象に当てはめるのである。だからこそ、ここに占いの面白さ、醍醐味があると思うのであるし、占いというものは一種の知的ゲームなのだと思うのであるが、ほんとに難しい。象徴を事象に当てはめる、いわば「適用」という行為である。

これに対して、占いであるから、占法という「技術」に習熟するとことも重要である。「技術」と「適用」の2つがあって、占いは成立する。

このうち「技術」は教科書や師匠や先輩から学ぶことができる。ときに「秘伝」ということで、なかなかアクセスしにくい技術もあるが、頑張ればそれを学び習得することができる。一方「適用」は教科書などから学ぶことができない。なぜなら、2つとして同じ人生はなく、2つとして同じ局面はないからである。そのときどきで違う事象(無数の事象)に有限の象徴や公式を適用させるのである。

だからこれは教えることができない。なにも「これは秘密、秘伝、なーいしょ、教えたらへーん。」と出し惜しみしているわけではない。教える側からしても、盗んでくれ!と言うしかないのである。結局、試行錯誤を繰り返し、経験を積んで学ぶしかないのである。

これは何も占いに限ったことではなく、スポーツや武術や芸術の分野でもそうではなかろうか。師匠から免許皆伝の奥義を授かったとしても、それだけで百戦錬磨となることはできない。血のにじむような稽古に励んで身体の奥にその「技術」をたたきこんで、百戦錬磨となれるのである。

武術やアスリートの世界は、僕はあまり詳しくないので、音楽を例にとってみる。名演奏家、名手上手は、人間業と思えない演奏で人に深い感動を与えてくれる。

友人があるとき素晴らしいギターの演奏を聞いて感動して

「「音楽」以外には何も無い。音以外の「不可聴」とでも言えるような成分が『主成分』なのです。 でも、それは録音では記録できないもの。 youtubeに落ちているのをいくつか聴いてみたけれど、やはり 「大切なもの」は記録できていない。 だから、『生で聴いてください』としか言えない。」

という感想を漏らしていた。

まさに名演奏を聞いたとき、僕も全くそう思うのであるが、本当に大切なものは記録できない。

ちょっと話がズレるかも知れないが、あるとき和太鼓のパーカッションを聞いたとき、聞いていると、あるはずのない「和音」が聞こえて来た。ドラムだけの演奏で和音が聞こえるわけないのだが、そのとき僕の脳裏には確かに和音が響いたのだ。この(あるはずもない)和音は録音には決して記録されない。

「行間を読む」という言葉がある。ほんとに大事なもの大切なものは、記録できないし文字にもできない。

占いにおいても同じではなかろうか。記録できないし文字にもできない「適用」というワザのコツを習得するためには、繰り返し習練し、経験を積んで自分で体得するしかない。


じつはこれが本当の「秘伝」なのではないかと思っている。

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